大谷翔平選手のL.A.ドジャース移籍は「テラトン級」のニュースとして全国に伝わりました。大谷さんは筆者より若いのですが「人」として心から尊敬する人物、名門・ドジャースを選んだことに感動しています。
12月10日まではトロントか?ニューヨークか?はたまたサンフランシスコなのか騒然としていましたね。しかしテレビの番組はドジャースに決まった直後からずっと契約金額(1,000億円超)のことばかり。そこがポイントではないのですが・・・。
大谷選手はお金に固執しない人で知られています。ドジャースに決めた真意は金銭ではなくほかにあるようで、日が経つにつれて少しづつ透けて見えてきました。
今日はなぜ選択したチームがドジャースだったことで感動するのか、そしてドジャースとはどんな道を歩んできたチームなのかを紹介します。
大谷選手の描くMLBの夢にドジャースがシンクロ
筆者が最初にドジャース・スタジアムを訪れたのは2003年です。偶然にも、この日に登板した石井一久投手が顔面に打球を受けたショッキングな日でした。
冒頭のアイキャッチ画像、壁面には野茂英雄選手の顔も見られる懐かしい写真です。しかし、何度か訪れたそのドジャースにこんなエポックメイキングな日が来るとは想像もしていませんでした。
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「現役生活最後の日まで」と大谷選手はソーシャルメディアへの投稿でドジャースを選んだことを発表しました。
そこにはこう書かれていたのです。
「ドジャースのためだけでなく、球界のためにこれからも努力していきたいと思います」
この言葉に大谷翔平選手とドジャースのすべての思いが込められているような気がします。
全室オーシャンビューのラグジュアリーリゾートで寛ぎに満ちた優雅な滞在を一番のポイントは野球人気がやや低迷気味・・・
アメリカの3大スポーツといえば、野球、バスケットボール、アメリカンフットボールです。これはアメリカの歴史や文化に根付いています。
バスケットボールは1891年にアメリカで発明され世界中に広まりました。
バスケットボールは都市部や若者層に特に人気があり、NBAは世界最高峰のプロリーグとして認められています。
バスケットボールは選手の個性や才能が際立つスポーツであり、マイケル・ジョーダンに代表される多くのスター選手を輩出したり有名チームが存在しています。
最近は視聴率や興行収入などに陰りがありますが人気は野球よりグッと上です。
アメリカンフットボールはラグビーから派生したスポーツですが、いまやアメリカで一番人気、それも群を抜いて人気のあるスポーツです。
毎年2月に開催されるスーパーボウルは世界最大のスポーツイベントといわれ、全米各地で熱狂的な支持を受けています。基盤の強さがあり大学や高校レベルでも盛んに行われ、地域社会や教育機関と密接な関係を持っています。
アメリカでは”地味なスポーツ”といわれるようになった野球
野球はアメリカンスポーツの”老舗”です。19世紀からアメリカで発展し一時は国民的な娯楽のトップでした。
野球は全米各地で広くプレイされており、MLBは世界最高水準のプロリーグとして認められ伝統があり多くの名選手を輩出してきました。しかし、近年では他のスポーツに人気を奪われていて、2023年から導入された”ピッチクロック”などは100%人気回復のツールです。
アメリカの野球にファンが熱狂したピークは1950年代から1960年代でした。このころからテレビの普及により全国的に野球の試合が観られるようになりました。
さらにリードオフしたのがL.A.ドジャースやニューヨーク・ヤンキースで、後から登場するジャッキー・ロビンソンなどの人種の壁撤廃があって、黒人選手やラテン系選手など多様な人種や民族の選手が大活躍したことも背景にあります。
しかしほかのスポーツが興隆したことで1970年代以降の野球人気は徐々に低下していきました。当時行われた選手のストライキやドーピング問題はファン離れを加速させ、さらに社会が忙しくなったのに野球は旧態依然として長~い試合なのでじっくり観戦する時間がないという問題もありました。
大谷翔平選手とドジャースの決意
これまでの大谷翔平選手とドジャースの関係を巻き戻してみましょう。
ドジャースは大谷選手が10代の頃から着目し、親密に接触してきた球団です。それは彼が10代で日本ハムファイターズと最初のプロ契約を結ぶ前に、すでに最初のアプローチを行った事実があります。
では大谷選手が太平洋を渡ってメジャーに躍り出たとき、なぜドジャースは選択されずエンゼルスに入団したのはなぜだったのでしょう?
それは単純なこと。ドジャースが所属するナショナルリーグでは、当時DH制(Designated Hitter=投手の代わりに打つ指名打者)を採用してなかったからなんですね。
しかし、エンゼルスとの契約が切れてフリーエージェントが近づいてくると再びドジャースにチャンスが訪れました。スポーツ選手単一の契約で史上最高額であったのは間違いありません。
しかしテレビのワイドショーが言うように金額の多寡が大谷選手の決定打だったはずはないのです。
「ドジャースのためだけでなく、球界のためにこれからも努力していきたいと思います」
ドジャースは金銭攻撃ではなく、「野球人気をベーブルースがいたころのようにあなたとともに盛り上げたい」という相思相愛の熱意が大谷翔平とシンクロしたのが決定打だったのに間違いないでしょう。
ドジャース移籍決定の後のSNSは大騒ぎ!
2023年12月9日(日本時間10日)、真っ先にCNNが「米大リーグのエンゼルスからフリーエージェント(FA)となっていた大谷翔平選手(29)が、名門ドジャースへの移籍を決めたと報じました。
Instagramに大谷選手自身がポストした内容がいかにもらしかったですね。
ドジャースに移籍した報告より前に「謝罪文」があるなんて…。
決断に時間がかかったことの謝罪の意味は、エンゼルス関係者やファンだけではなく、人生にとっても大事な自分以外の選手の移籍交渉を待たせたという意味合いがあります。
To all the fans and everyone involved in the baseball world, I apologize for taking so long to come to a decision.
I have decided to choose the Dodgers as my next team.
ファンの皆様、球界関係者の皆様、決断に時間がかかり大変申し訳ございません。 私は次のチームとしてドジャースを選ぶことに決めました。
SNSの皆さんの反応は?
前述のように大谷翔平選手がドジャースと契約合意した金額は、彼の気持ちの中ですべてを占めるものではなさそうです。とはいうものの過去のスポーツ選手の単一契約では史上最高額のド~~ンと10年総額7億ドル(約1015億円)!
さらに契約内容もスゴイ!「オプトアウト(契約破棄)条項は含まれていないっていうんですからね。
オプトアウトは自分の予期せぬ変化などあった場合に自分から契約を破棄できる権利です。この契約内容から行けば「生涯ドジャースで野球人生を終える宣言」という覚悟になります。
SNSではやはり「契約金額にもビックリだが、10年契約オプトアウト権無しという大谷選手の覚悟の重さに朝からずっと震えてる」などと驚きのポストが目立ちます。
しかし考えてみれば、移籍先探しのヒントは①西海岸、②優勝が狙えるチーム、③金額的に余裕がある、こう並べてみるとドジャース移籍は必然だったかも…。
こちらは移籍決定した日にポストされた”X”(旧ツイッター)です。
大谷翔平は78歳まで毎年14億5000万円が支払われる!?👀
— 【SS】大谷速報&スポーツ速報 (@30R9gmaMUy3guDJ) December 10, 2023
ファングラフスが大谷の後払い方式をシュミレーション!
大谷は後払いによって、年俸4000万ドル〜5000万ドル(58億円〜70億円)に抑えることが可能とのこと
この件は大谷側から提案したとの情報も
🎥@JeffPassan
pic.twitter.com/0g2gCRxu8m
大谷選手の新天地L.A.ドジャース~まるわかり辞典
お待たせしました。それでは今日の本題の「ドジャースまるわかり」に入りましょう。ニューヨーク時代とロスに来てからと長い歴史があります。
ドジャースはこれまで大谷翔平選手とともに歩んだ10年に渡る努力を見事に開花させました。大谷選手も現在の30球団の中で最も持続可能な成功を収めたチームだったと認めたわけです。
ロサンゼルス・ドジャースは2013年以来、ほかのチームがうらやむ方式で毎シーズンポストシーズンに進出しています。
ドジャースの強みは強力な地元人材のパイプラインです。セレブの町には経済的に困る要素もありません。
ロサンゼルス・ドジャース チームの歴史と百科事典
それでは最初にドジャースに関する沿革と関係する数字を紹介しましょう。
ワールドシリーズ優勝回数:7回
1955 1959 1963 1965 1981 1988 2020
地区優勝: 21回
ワイルドカード:3回
プレーオフ出場: 37回
消化したシーズン: 140シーズン (1884年から2023年まで)
勝敗記録: 11,334勝10,004敗
通算勝率 . 53.1%
最多優勝監督: ウオルター・アルストン(2,040勝1,613負、勝率55.8%)
ロサンゼルス・ドジャースになるまでのチーム名の一部(順不同):
ブルックリン・ドジャース、ブルックリン・トロリー・ドジャース 、ブルックリン・アトランティックス、ブルックリン・グレイズ、ブルックリン・ロビンズ、ブルックリン・スーパーバス、ブルックリン・グルームズ、ブルックリン、ブルックリン・ブライドグルーム
(公式ニックネーム)グルーム=花婿、スーパーバス、ロビンズ
⇧ ドジャースの公式サイトよりThe best in Sho. Welcome to the Los Angeles Dodgers, Shohei Ohtani!
— Los Angeles Dodgers (@Dodgers) December 12, 2023
ロサンゼルス・ドジャースへようこそ、大谷翔平! pic.twitter.com/7wBuoKZ9ze
本拠地球場:
ドジャー・スタジアム (1962年 ~現在)
ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム(1958年~1961年)
エベッツ・フィールド(1913年~1957年)
ルーズベルト・スタジアム (1956年~1957年)
ワシントン・パーク II (1898年~1912年)
イースタン・パーク(1891年~1897年)
ワシントン・パーク I (1884年~1890年)
リッジウッド・パーク (1886年~1889年)
引用=wikipedia ロサンゼルス・ドジャース
1957年まで、ブルックリン・ドジャースにとって宿命のライバルが存在しました。それがジャイアンツ(当時はニューヨーク)です。
ニューヨーク・ジャイアンツがサンフランシスコに移転が決まると、なんとドジャースも移転を決めたのです。その引っ越し先までがライバルに近い西海岸のロスアンゼルスでした。こうしてロサンゼルス・ドジャースが誕生しました。
ドジャースというチーム名は、古い名前であるブルックリン・トロリードジャースの短縮形です。町の人は当時走っていた路面電車をスルリとかいくぐっていたことに由来しています。
ドッジボールで遊んだことあるでしょ。英語のdodgeは「かわす(躱す)」の意味なのね。面白いのは明治のころ「デッドボール」って呼んでいたんだって。
MLB全球団の永久欠番”42”、ジャッキー・ロビンソン
ジャッキー・ロビンソン(Jackie Robinson)はアメリカのプロ野球選手です。人種差別に立ち向かい、メジャーリーグベースボール(MLB)のカラーバリアを破った最初の黒人選手として歴史に名を残しました。
彼は1947年4月15日にブルックリン・ドジャースでデビューし、10年間で殿堂入りのキャリアを築きました。彼はファンや対戦相手からの脅迫やあまりにもひどい暴力を受けたにも屈せず、多くのタイトルや賞を獲得し、有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた人物です。
ジャッキー・ロビンソンは1919年1月31日ジョージア州カイロ生まれ。非常に貧しい家庭で育ち、あの時代の映画で見るような恐ろしい人種差別に直面してきました。
彼はマルチなスポーツタレントの持ち主で、高校や大学で様々な競技に挑戦しました。野球だけでなく、フットボール、バスケットボール、陸上競技でも優秀な記録を残しています。
1941年にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)を卒業、その後第二次世界大戦では陸軍に入隊しました。本当に過酷な人種差別に苦しみながらも生き抜き勇敢に戦いました。1944年に除隊してからプロ野球選手としての道を歩み始めました 。
当時の黒人選手はニグロリーグと呼ばれる別のリーグでプレーするのが通常でした。ジャッキー・ロビンソンは1945年にニグロリーグのカンザスシティ・モナークスと契約してプレーしていました。
その年の秋、ブルックリン・ドジャースのオーナーであるブランチ・リッキーから運命的なスカウトがありました。リッキーは人種差別を打破するために黒人選手をメジャーリーグに連れて行くという野望を持っており、ジャッキー・ロビンソンをその第一人者として選んだのです。
ブランチ・リッキーがジャッキー・ロビンソンに対して言った質問は有名です。
「あなたは白人選手と同じようにプレーすることができますか?
あなたは自分を守ることができますか?
あなたは自分を抑えることができますか?」。
ジャッキー・ロビンソンは「自分を守ることができます」と答えました。リッキーは「自分を抑えること、あなたが反撃したらすべてを失う」ことを承知させ、結果的にプロ野球の成功者に導いたのです。
ジャッキー・ロビンソンは1900年以降の黒人選手パイオニアで、厳密にいうとアフリカ系のメジャーリーガーはモーゼス・F・ウオーカーが最初です。
ドジャースは大谷選手をMLB伝説の選手にするつもりだ
現在29歳の大谷翔平選手は、100年以上前にボストン・レッドソックスで圧倒的な投手として活躍したベーブ・ルース以来のハイレベルな二刀流選手としてMLBの歴史を塗り替えました。
しかしその偉大なルースでさえ、球界史上最高のホームラン打者の一人になることに集中するため投手をあきらめています。
大谷は2023年に尺骨側副靭帯を断裂し2024年のマウンドを降りることになりました。しかし彼は臆することなく2024年もガンガン打ちまくり、2025年には二刀流に戻るでしょう。
昨年はそんな大きなアクシデントで投手シーズンが早々に終わったにもかかわらず、満場一致で2度目のア・リーグMVPを獲得しました。
昨シーズン、大谷選手は44本塁打を放ち、出塁率と長打率(OPS)は1.066を記録しました。どちらの数字もアメリカンリーグで最高です。
マウンドに上がった大谷は23試合に先発し、防御率3.14。大谷が先発登板した試合は14勝9敗(.608)、エンゼルスはその他59勝80敗という数字を残しました。
野球の中心に大谷選手がいる
大谷翔平は、今後10年間をロサンゼルス・ドジャースで過ごすことを発表し、野球史上最も興味をそそられ、最も秘密裏に・・・、そして最も高額なフリーエージェントキャンペーンを締めくくりました。
「現役生活最後の日まで」とソーシャルメディアへの投稿でドジャースを選んだことを発表しましたね。 「ドジャースのためだけでなく球界のためにこれからも努力していきたいと思います」、この言葉にはズシッとした重みを感じます。
ドジャースの経済状態まで配慮した可能性がある契約
こうしてドジャースの歩んできた道を辿ってみると、事ここに至る道の起点は2012年にグッゲンハイム・グループが20億ドルでチームを買収したことに遡る古~い話になります。
前オーナーのフランク・マッコートが離婚費用としてとんでもない金額を支払うことになったことが発端となり、 2年後、ドジャースはチームの野球運営責任者であるアンドリュー・フリードマンを迎え入れて生まれ変わったわけです。
フリードマンはロサンゼルスに来る前、薄給でタンパベイ・レイズのゼネラルマネージャーを務めていました。ドジャースの社長兼最高経営責任者(CEO)のスタン・カステンは、彼が野球界の贅沢税制度(年俸総額が一定額を超えた球団に課される金額)のルールを学ぶべきだと口癖のように話していました。
大谷選手は自身の「7億ドル契約」について配慮したんでしょうね。おそらくドジャースの経済力を考慮すると、ベッツの3億6,500万ドルの延長契約とフリーマンの1億6,200万ドルのフリーエージェント契約のほかに、来シーズンの予定40人名簿には21人の生え抜き選手という異常に多かったことが「分割払い・50%は10年後に」というオプションになったのかもしれません。
ドジャースと大谷翔平選手は10年総額7億ドル(約1015億円)で契約したことはすでに書いた通り。
しかし『即払い』される年俸は、わずか200万ドル(約2億9000万円)と判明。総額の大半(97%)になる残り金額の6億8000万ドル(約986億円)は契約満了後の2034~43年に後払いされるという。
全く泣かせる男ですね。この前例のない偏ったアイディアはなんと大谷選手自身の希望によるものとのこと。ドジャースが十分補強できるように配慮したものです。これでこのサイトに書かれていることが齟齬していないことを証明できました。
すべてを乗り越えドジャースに骨を埋める覚悟
筆者が考えても大谷選手にとってドジャースのほうがエンゼルスよりもフィットするかなと想像します。
アナハイムでの6年間、エンゼルスはこんな素晴らしい人材を目の前にしながらどういうわけか機能不全のままでした。エンゼルスにはすでにマイク・トラウトという一世一代のスーパースターがいたことも不運な影響を与えたかもしれません。
「浮き沈みのすべてを乗り越えて私をサポートしてくれたエンゼルスファンの皆様へ」と大谷選手は投稿の中で、「皆さんのサポートと声援は私にとってサイコーのものでした」と書いています。
言い方は良いか悪いかわかりませんが、今のドジャースにとってワールドシリーズのトロフィー奪還のためだけなら ”Ohtani” はいらないかもしれません。
しかし、野球界全体を見れば “Ohtani” はどうしても欠かせない人物なのです。
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