⛳ あなたはトム・モリス親子のことをご存じですか?
ゴルフ愛好家の多くが「聞いたことはあるけれど詳しいわけではないね」と答えるかもしれません。
父親のトム・モリス・シニア(オールド・トム・モリスとも呼ばれます)は生涯輝かしい栄光を背負って生きました。しかし息子のヤング・トム・モリスは想像を絶する悲劇の主人公になってしまったのです。
全英オープン4連覇という、未来永劫に破られないであろう超人的な記録を作った息子のヤング・トムは、おなかの子供とともに亡くなった妻を見た時からひどく憔悴し、4か月も経たないクリスマスの夜に、愛する妻がいる天国へ旅立ってしまったのです。
今日はそんな光と影の運命に翻弄された、感動的なゴルファー親子の物語です。
トム・モリス親子の栄光と悲しみ~今も生き続けるふたり
⛳ 筆者はゴルフを深く深く愛しています。
プレーすることの楽しさはいうまでもありませんが、ゴルフの歴史やトリヴィアにも人一倍の興味を持っています。なので国内外のゴルフ書籍や雑誌に囲まれているだけでもうシアワセなんです。単純でしょ。
独断と偏見を許していただくなら、今日のゴルフ界をここまで興隆させた人物を3人挙げよといわれれば迷うことなく「トム・モリス、アーノルド・パーマー、タイガー・ウッズ」と答えます。
それでは年齢順ですからまず「トム・モリス・シニア(以下オールド・トム)」からご紹介しましょう。
まさにゴルフの申し子、天才だったトム・モリス・シニア
⛳ 1800年代のゴルフ界を背負って生きたのがトム・モリス・シニアです。
19世紀のゴルフのパイオニアと呼ばれているオールド・トムはジ・オープン(ゴルフの全英オープン)の草創期の時代に複数の優勝を挙げたスーパースターです。
彼は黎明期のプロゴルファーのひとりだったというエピソードは多くの方がご存じですが、じつは競技以外の功績のほうが大きいかもしれません。それはこの後ご紹介します。
オールド・トムの誕生から約200年が経ちました。私たちがいま楽しんでいるゴルフのゲームの基礎を作った男の人生を振り返ります。彼こそ悠久のゴルフ史の中で最も伝説的な人物です。
スコットランド出身の有名なゴルファーというと、コリン・モンゴメリー、サンディ・ライル(マスターズ優勝者)、トミー・アーマーがいます。
※ちなみに1860年というと、国内では2月10日に咸臨丸が太平洋を横断してサンフランシスコへ到着。同2月、横浜の本町でオランダ人船長と他のひとりが攘夷派に斬殺。
3月24日に桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺。
アメリカではエイブラハム・リンカーン大統領が誕生した年でした。
生まれた場所、そのタイミング~ゴルフのために生まれた人
⛳ そもそも生誕地がスコットランドで、世界最古のゴルフコース「セント・アンドリュース・オールドコース」にほど近い場所だったなんてできすぎた話ですね。
セント・アンドリュースがあるファイフ(Fife)という町はいまでもファイフ王国として知られています。全体がドデカい半島の形なので海岸がとても美しい町ですね。
オールドコースはこの半島の先端に位置しています。
ファイフには素晴らしい歴史的建造物がたくさんあります。ダンファームリン修道院(スコットランド王室の最後の休息所)、カロスの宮殿、カーコーディのレイヴンズクレイグ城、観光の方が訪れる歴史的な家(タルビットの丘)、セントアンドリュース大聖堂などなど。
セント・アンドルーズのオールドコースから南西にたった1.4kmの地点に彼が卒業したマドラス大学(Madras College)があります。
ファイフは人口で見るとスコットランドで3番目に多い地域で、ざっくりといって約37万人の人が住んでいます。千葉県の柏市より少し少ないだけですね。
ちなみに彼が生まれた家はすでに取り壊され、大体の場所しか特定できません。
ゴルフの全英オープンの大会名は「The Open」よね。どこにもGolfが入ってない!それは当時世界中の選手に開放したスポーツ大会がほかになかったからなのよね。
現在に生きるゴルフコース・メンテナンスを開発したオールド・トム
⛳ 先ほど確かにゴルフの腕前は飛びぬけていて、世界の草創期のプロだったと話しました。それが1843年ころのことです。
”ジ・オープン”で第1回こそウイリー・パークに優勝(モリスは2位)を譲りましたが、第2回の1861年、第3回の1862年、第5回の1864年、第8回の1867年に優勝しています。
ただそれを評価するのはそれが彼の実績の半分に過ぎません。偉大なプレーヤー以外の顔はクラブメーカー、グリーンキーパー、ゴルフコースデザイナーだったことです。
当時のゴルフコースというとあるがまま、自然の地形そのままでほとんど修繕などしませんでした。しかし時に砂のない大穴(戦争中に掘られた塹壕)でけがをする人が出たため、最初に砂を入れて「バンカー」を作ったのがオールド・トムです。
さらに当時は荒れ放題だったグリーン上に砂を撒くワザを考案したのも彼でした。
その簡単な作業のおかげで芝は伸びが良くなり、転圧(ローラー)にも耐えられるようになったのです。
あまりにも有名になったため、のちの(日本だけですが)「カップサイズの108mmは水道管をヒントにしたオールド・トムが決めた」という空想(?)は強く信じられ、最後は定説になるということもありました。
おそらくは「そんな大事なサイズなど、オールド・トムくらいにしか決められないんじゃ…」という憶測からなんでしょうね。ウワサは実(まこと)しやかに広がってしまい、だれも疑わなくなりました。しかしその説を覆す証拠が出てきて没になります。
詳しい顛末は以下のページのトリヴィアに書かれています。
ゴルファーとしての成果とゴルフの裏方としての功績
⛳ オールド・トムは10歳からゴルフを始めました。すでにアルバイトでキャディー経験がありました。
タイガーやマキロイと同様、その才能に町の人が驚き始めたころの14歳、アラン・ロバートソンがスカウトし弟子になります。
アランは世界最初のプロゴルファーのひとりとみなされていて、当時彼はセント・アンドリュースと道具や付随品の専属契約を結んでいました。オールド・トムはアランのもとで4年間見習い、その後の5年間はワンクラス上の職人になります。
オールド・トムの全英オープン記録を見ると目が覚めます。
まず1867年に最年長優勝(46歳)。2位に最大差(1862年の13打差)という2つのレコードを持っています。
彼は最後に出場した1896年(75歳)まで、一度もパスなしで出場しました。これは36大会連続という鉄人記録でもあります。
同時にオールド・モリスは83歳(1904年)になるまで、セント・アンドリュース・オールドコースのチーフ・グリーンキーパーを務めあげました。
世界ゴルフ殿堂の文献では、モリスのゴルフを次のように描写しています。
「彼のスイングは実にゆっくりと滑らかなものだった。しかしはた目で見ていても競争心が猛烈だったことが伝わった。オールド・トムの唯一の欠点は頻繁にショートパットを外したことくらいだった」とあります。
オールド・トムがゴルフに対して行った輝かしい履歴
- ゴルフコースの長さを18ホールに標準化しました。
- 生涯のコース設計は6つの国と地域で75コース以上。
- 世界で最初に芝刈り機を導入した。
- グリーンの密度と均一性をよくするために日常的に砂で覆うことを偶然に発見した。
- 肥料の使用を始めたのもオールド・トムから。水はけをよくするためにグリーン下に水たまりを作りそれをバンカーに流した。
- 昔はコースにたくさんの掩蔽壕(出入り口や上部をおおった塹壕ざんごう)がありました。危険だったのでハザードとして戦略的に改善し安全にしました。
- グリーンまでのヤードエージ・マーカーは彼の発案です。
- 当時のゴルファーはプレーしたばかりのグリーン上からティーオフしていました。これを改めティーイングエリアを造りました。
幼少期から天才といわれたヤング・トム
⛳ オールド・トムは4人の子持ちですが、最初に生まれた男の子に自分と同じ「トーマス(トム)」と名付けました。この父にしてこの息子、トム・モリス・ジュニア(以下ヤング・トム)はまさにジーニアスでありプロゴルフのパイオニアでした。
ヤング・トムの天才ぶりはすさまじく、7歳の時父とパッティングレースをして勝ったという逸話が残っています。成長した彼のことを友人たちは「ゴルフ界のヘラクレス」と呼んでいました。
「ジ・オープン(全英オープン)」で4回連続優勝(1968、1969、1970、1972=1971年は非開催)を果たし、この記録は将来にわたり金字塔として輝き、おそらく光を失いません。
(同じメジャー大会を4年連続で制覇したゴルファーは、1924~1927年・全米プロゴルフ選手権のウォルター・ヘーゲンだけです)
ついでに17歳で全英に勝ったのは今でも破られていない最年少優勝記録です。(父は最年長記録、息子は最年少記録)
余談ですが、3年連続優勝する人は出るわけないと決め込んでいた大会の主催者は、もし出たら賞品の「銀のベルト(プレストウィックのメンバーが寄贈した赤のモロッコ革製で豪華な銀のバックル付き~正式にはチャレンジベルト)」を取り切りで差し上げますとタカをくくっていました。
ところがヤング・トムがそれを果たしベルトは持ち帰ってしまいついに翌年は賞品がなくなり開催中止に。
困った挙句に製作したのがいまでは有名な「クラレットジャグ」です。みなさん最終日に優勝者の名を刻むシーンをご覧になっているかも。
第1回大会は総勢8名。それも全部プロゴルファーばかりでした。
創設したフェアリー氏は「これではオープンといえないなぁ」と考え込みます。2回目からはアマチュアの参加を呼びかけると12名になり、全英オープンの実質的なスタートとなりました。
ちなみにこの大会のベストアマはフェアリーさんご自身。スコアは優勝したオールド・トムに21打及ばなかったと記録にあります。
悲劇は突然ヤング・トムに襲いかかった!
⛳ 全英オープンが始まってから12回大会までに、トム・モリス親子あわせて8回制覇。
大会期間以外はスコットランド中から挑戦者たちが引きを切らしませんでした。逆に言うとそのマッチプレーでの稼ぎが生活を支えていたわけです。
最強コンビの親子は1875年9月11日、 ノース・バーウイックでプレーしていました。ふたりの相手はパーク兄弟(全英オープン第1回の優勝者のウイリーとマンゴ)です。
ふたりがクラブハウスに戻ったところへ電報が届き、ヤング・トムの妊娠していた愛妻(マーガレット・ドリンネン)が危篤だという悪い知らせが…。
ふたりは近くの港から10km先のニューアーク・キャッスル港へ向かいました。必死で荒れまくるフォース湾をヨットで突っ切っていったのです。
家に到着したときは時すでに遅く、妻と生まれたばかりの子供はすでに死んでいました。
ヤング・トムは悲しみに打ちひしがれ、それから3カ月少し経ったクリスマスの夜、ついに命の炎が燃え尽きてしまったのです。
彼はこの時24歳、死因は肺出血による無呼吸であると記された診断書が残っています。あまりにも集中力の高かったヤング・トム、きっとそれが逆に災いとなったのではと想像しています。
父のオールド・トムは息子より33歳長く生きましたが、彼の妻は32歳で亡くなり彼はふたつの深い悲しみを背負って生きたわけです。
トム・モーリス親子の物語のまとめ
⛳ オールド・トム・モリスは、おそらくゴルフの歴史の中で最も影響力のある人物です。そしてプロゴルファーが社会的地位が低かった時代に、スコットランドで最初のスポーツセレブリティだったことは間違いありません。
モリスは1837年に17歳で、アラン・ロバートソン(最初のプロゴルファーのひとり=、セント・アンドリュース・オールドコースで最初に80を切った)に弟子入りしました。
ロバートソンはフェザリーボールを創作した人で、モリスもその技術を教わっています。
ふたりはチームを組んでマッチプレーを戦い連戦連勝、相当稼いだようです。
しかし時代が進み「安価なガッタパーチャのゴルフボール」の出現でふたりの確執が始まります。
ロバートソンはモリスに新タイプのガッチャバータは使わないように説得しました。でもモリスはその性能を認めたので積極的に使い、ついに1849年にロバートソンの元を離れていきました。
1865年、オールド・トムはセントアンドリュースのオールドコースのグリーンキーパーとして復帰、1904年まで職務を全うしました。
そしてその頃18番グリーンわきに自分のクラブショップを開きます。その彼の後継者の中にはゴルフデザインの天才であるドナルド・ロスもいます。
2007年、ケビン・クックの著書『Tommy’s Honor: The Story of Old Tom Morris and Young Tom Morris, Golf’s Founding Father and Son』が、ハーバート・ウォーレン・ウィンド・ブック・アワードのベスト・ゴルフ・ブック・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。2017年に「トミーの名誉」というタイトルで映画化されています。
これでゴルフ界に大きな功績を残したトム・モリス親子の物語は終わりです。
息子より長生きしたオールド・トムは1868年のジ・オープンで息子が優勝したときは自分が2位だったため、親子で1-2フィニッシュしたことをそっとお墓の中にもっていって温めているのかもしれません。
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