みなさんいかがお過ごしですか?
今回は「球聖」と冠がついたゴルフ界のレジェンド、ボビー・ジョーンズです。
ボビー・ジョーンズが成し遂げたグランドスラムは夙に知られていますが、いまだに暦年(暦の上での1年間)での偉業は後に続く者がいません。
ゴルフファンなら一度は耳にしたことがある「ボビー・ジョーンズ」というビッグネーム、彼の発言や行動は筆者を含め多くの方に敬愛されていますが、今日は彼の意外なエピソードと、あまり知られていない晩年の難病との闘いを紹介します。
ボビー・ジョーンズ回顧録~知られざる一面
ボビー・ジョーンズは1930年にグランドスラムを達成しました。全英・全米ふたつのアマチュアタイトル、全英・全米ふたつのオープン選手権でしたね。
その後、ボビー・ジョーンズはプロにならないままアマチュアとして競技を続けました。彼は輝かしい栄光を残したまま弁護士になる道を歩んだのです。
筆者が思うに、当時のプロゴルファーのソーシャルステータスはとても低く、弁護士とは両極といってもいいくらいでした。いろいろ考えての結果だったのでしょう。
彼はゴルフの普及と次世代の選手育成にも貢献し、オーガスタ・ナショナル・ゴルフクラブやマスターズ・トーナメントの創設者の一人としても知られています。ボビーはゴルフの歴史において、最も偉大な選手の一人として尊敬されています。
「ゴルフ興隆の礎」は間違いなくボビーといっていいでしょう。
ちなみに世界中のゴルフファンはどのくらいいるかご存じですか?国によってプレーする人だけしかカウントしないケースもありますが、世界ゴルフ財団(WGF)が2019年に発表した数字は4億4,000人でした。日本は純粋にプレー人口のみですが、世界ではこの数字全体の33%がプレー経験があるとみられています。
ボビー・ジョーンズの印象を語る3人の偉人
ドワイト・アイゼンハワー
「彼が友人やたくさんのゴルフファンに贈ったものは、利己心、優れた判断力、人格の高潔さ、原則への揺るぎない忠誠心から来る暖かさです」
プロフィール~第34代アメリカ大統領。陸軍では陸軍参謀総長。最終階級は元帥。モットーは「物腰は優雅に、行動は力強く」。ゴルフを愛しオーガスタナショナルGCにはかつて「アイクの木」がありましたがハリケーンで倒れてしまいました。
ジャック・ニクラウス(1960年=20才の時)
「ジョーンズは史上最高のゴルファーであり、おそらくこれからもファンの心のなかで生き続けるだろう。ボビー・ジョーンズのゴルフ、それが私の唯一の目標です」
プロフィール~1960年代から1990年ころのゴルフ界をけん引したプロゴルファー。ライバルのアーノルド・パーマーと鎬を削った。トレードマークは金髪で「ゴールデン・ベア」や「帝王」と呼ばれた。メジャー通算18勝は史上最高の記録。
グラントランド・ライス
「ボビー・ジョーンズは100万人に1人ではない…1000万人に1人、いや5000万人に1人というべきか」
プロフィール~1880年11月1日– 1954年7月13日)は20世紀初頭のアメリカ人スポーツライター。
彼は非常に優雅な散文で知られたくさんのファンがいます。彼の著作は全国の新聞に掲載され、ラジオでも放送されました。
ボビー・ジョーンズの生涯(神童と呼ばれた少年時代)
ボビー・ジョーンズの本名は”ロバート・タイアー・ジョーンズ・ジュニア=Robert Tyre “Bobby” Jones, Jr.です。
1902年3月17日、アトランタ(ジョージア州)生まれ、1971年12月18日没。職業は弁護士。
生まれたとき父は弁護士で「大佐(Colonel)」と呼ばれたロバート・パーメダス・ジョーンズで、母はクララ(Clara)という名前でした。
ボビー・ジョーンズの祖父はジョージア州カントン出身のロバート・タイア・ジョーンズで、彼は息子であるボビーの父をロバート・パーメダス・ジョーンズと名付けました。やがてボビーの父は生まれた子供に”ロバート・タイア・ジョーンズ・ジュニア”と呼ぶことに決めました。
幼少期はいわゆる「虚弱体質」で、父は健康上の理由からゴルフを習わせました。ところが聡明な彼は最初から頭角を現します。
6歳の時に近くのコースで開催されたジュニア・トーナメントで優勝しました。
事実、12歳では「70」で回っています。イーストレイクのメンバーが彼の異常な才能に気づき始めたころから「神童」とか「ボビー」と呼ぶようになり父親のボブ・ジョーンズ大佐と区別しました。
彼は13歳のときにイーストレイクとドルイドヒルズの両方でクラブチャンピオンシップを獲得しました。
1916年、ボビーが14歳の時にブルックヘブンのキャピタルシティクラブでジョージア州ゴルフ協会が主催した初代ジョージア・アマチュア選手権で優勝し、初のメジャーゴルフイベントで優勝を果たします。
この大会に優勝したことで全米アマチュアへの出場権を得ました。全米ゴルフ協会(USGA)がその名前に注目し当時の記録に書かれています。
彼は22歳(1924年)の時、メアリー・ライス・マローンと結婚。お子さんは3人(男子1名、娘2名)。
身長は5フィート8インチ(173cm)、体重は約165ポンド(75 kg)。さほどの体ではなかったのですが、やはり持ち前のクレバーなゴルフが実を結びました。
余談ですがアトランタ・ジャーナルのキーラー記者が「ボビー」の名前を広め続け、1920年代以降はイギリスのゴルフファンは彼を「私たちのボビー」と呼ぶようになったんだ。
跳びぬけた実力を発揮した時代
ジョーンズは、国内および国際レベルで競い合った最も成功したアマチュアゴルファーでした。1923年から1930年までの絶頂期には、トップレベルのアマチュア競技をことごとく手中に収め、世界最高のプロゴルファーと競い合いました。
ボビーはウオルター・ヘイゲンやジーン・サラゼンなど当時の名だたるトッププロであるスター選手をしばしば打ち負かしています。
彼は主に弁護士として生計を立て、ゴルフ大会には常にアマチュアとして出場しています。
引退の決断について聞かれたジョーンズはこんな風に答えています。
「チャンピオンシップゴルフは檻の中にいるようなものだ。まず、それに値するプレーヤーであり、次にそこにとどまることが期待されています。しかし、ずっとそこに留まることはできません」。
ジョーンズはメジャー大会の31試合に出場し13勝を挙げ、ほかの大会でもトップ10入りを27回記録しました。
ボビーのやんちゃ時代
1921年
ボビーの若い頃は気性が荒く、必ずしも巷間伝わるような優等生ではありませんでした。
1921年にセントアンドリュースで開催された全英オープンではバンカーにつかまりそこで4打費やして頭に血が上ったようです。
彼はカードを破り捨ててコースを後にしました。
そのことは生涯ボビーの心の傷となり、自分のつたない行動に対し悔やんでいたことを吐露していました。
「カラミティ・ジェーン」伝説~コピーの鑑定額は?
1925年
「ボビーのカラミティ・ジェーン伝説」はこのころから始まりました。彼は1920年代初頭にロングアイランドのナッソーでスコットランドのプロ、ジミー・メイデンからオリジナルのパターを贈られました。
数年後の1925年11月22日、イーストレイクのクラブハウスが全焼する事件がありました。ボビーの大事なクラブはカラミティ・ジェーンを除いてすべて焼失。
ボビーはよほど堪えたのでしょう、クラブをコースに置くことを止め自宅へ、さらにカラミティ・ジェーンは自分の部屋に常時置きました。彼は寝るときもベッドの中にそのパターを置いたという説があります。
希少価値のある「カラミティ・ジェーン」を探せ!
このクラブ消失事件以後、「カラミティ・ジェーン」のコピーを6枚作ることを許可しています。
そのうちの1本は彼のバッグに収められ、過去10回のメジャータイトル獲得に貢献し、現在はニュージャージー州ファーヒルズのUSGAミュージアムに展示されています。
実は残りの5つをコレクターがまだ探しています。カラミティ・ジェーンII.のレプリカは、ジョーンズのサインがパターヘッドの裏側とシャフトに刻印されているので容易に識別できます。なんでも鑑定団に出せばおそらく数千万円になるかも?
「銀行強盗じゃないからエライ」なんて言いますか?
1925年
この年の全米オープンはニューヨーク州のウィングドフットゴルフクラブで開催されました。ボビージョーンズは最終日に首位と1打差の2位でスタートしています。
11番ホールでボビーのティーショットは大きく右に曲がり深いラフへ。次のショットを打つ構えをした時異変が起こりました。ボビーはショットせずにオフィシャル(公式審判員)の元に行きます。
ボビーはオフィシャルに向かって自己申告をしました。ショットを打つ際に自分のクラブがボールに触れて微妙に動かしてしまったと。
当時のルールでは2打罰を受けることになります。その日のプレーパートナーだったウオルター・ヘイゲンは「誰も目撃していないからそれを証明することができない」と説得しましたが聞き入れられません。
審判はボビーの申告を認め2打罰を課すことになったのです。
その結果ボビーは2打差でプレーオフ進出を逃し、優勝したのはウィリー・マクファーレンでした。
この事件は大きな話題となり多くの人々がボビーの正直さを称賛しました。しかし、彼自身は「あれは自己申告ではなく、単なる自己紹介だ。あぁしなかったら、自分が誰なのか分からなくなってしまっただろう。それとも銀行強盗をしなかったからエライねって言うのかい?」
ボビーを思い出すときは、彼のスポーツマンシップも一緒に考えてみてください。
意外と忘れっぽいけれどオシャレな行動のボビー
1926年
全英オープン最終日はロイヤル・リザム&セント・アンズで行われました。
ボビーはトーナメントリーダーのアル・ワトラスとホテルのスイートルームで食事をした後、ふたりは徒歩で5~6分ほど離れたゴルフコースに戻っていきました。
入り口のセキュリティでワトラスはプレイヤーバッジ(通行証)を見せてコース内に。しかしなぜかボビーは慌てています。じつはボビーはプレーヤーバッジを先ほどのレストランに置いてきてしまったのでした。
ボビーは取りに戻るとスタートに間に合わず「遅刻=失格」になることを察知しました。
ボビーは全く慌てることなくギャラリーのチケット売り場に行き、何事もなかったかのように入場料を支払い、そそくさと午後のスタートティーに向かい事なきを得ました。
その数時間後、彼は全英オープンで初優勝を果たしにこやかに表彰台に立っていました。71番目のホールでは約175ヤードの砂地からセミブラインドでプレーした彼は、大胆にマッシー(5番アイアン)を使用しグリーンを捕らえました。あり得ないショットをマークしたクラブは、今もリザムのクラブハウスにあります。
ボビー・ジョーンズのこんな気配りがあった
1929年
この年の全米オープン、ボビーは最終日の最終ホールに立っていました。
スコアはリーダーに対し1打遅れています。しかし最終18番でなんともトリッキーな12フィートのパットを沈めてプレーオフに持ち込むことができました。
そしてすぐボビーは主管の全米ゴルフ協会に対し、プレーオフ当日(翌日の日曜日)の朝のスタート時間を1時間遅らせてもらえないだろうかと依頼しました。
さてその理由は?
ボビーは対戦相手のアル・エスピノーサが敬虔なカトリック教徒であることを知っていました。彼が日曜日のミサに出席する機会を与えたかったのです。
結果はボビー・ジョーンズがプレーオフ36ホールでなんと23打差で優勝しました。
批判の嵐のなかで始まったオーガスタ・ナショナルの建設計画
1933年
大恐慌の真っ只中にオーガスタ・ナショナルを建設するという決断は、周囲の人たちから「正気の沙汰ではない」といわれたものです。
この当時、ゴルフコースをオープンする人などいないどころか、多くのゴルフコースが次々に閉鎖されていました。
ボビーの計画で3人の投資家から建設費の大部分を確保することができましたが、コースがオープンした後は請求書の支払いに苦労していました。破産を掻い潜るために名義を2回変えるトリックも行いました。
1934年に、彼らはトーナメントを開催するというアイデアを思いつきました。当初は「Augusta National Invitation Tournament」でスタートし、1939年からは「マスターズ・トーナメント」に変更します。
現在、この大会だけは観客を”パトロン”と呼んでいますが、運営に困窮したころの支援者に対する呼びかけの名残です。
ボビー・ジョーンズ死す
1971年
この年の12月18日にボビーは永遠の眠りにつきました。
この悲しい知らせがセントアンドリュースに届いたとき、オールドコースをプレーしていたすべてのゴルファーたちはプレーを中止し、クラブハウスには半旗が掲げられました。
翌1972年の追悼式で、セントアンドリュースのオールドコースの10番ホールが「ボビー・ジョーンズ」と敬意を表して名付けられたと発表されています。
ボビー・ジョーンズ~エポックメイキングな足跡
グランドスラムを達成し、競技ゴルフから引退した後も、ボビー・ジョーンズの目覚ましい活躍は続きました。
- 1931年、ワーナー・ブラザースのためにゴルフ教育映画のシリーズを制作し、W.C.フィールズ、ジェームズ・キャグニー、ロレッタ・ヤングなどのスターが出演しました。
- ジョーンズは、A.G. Spalding & Co.が1932年に登場したころから、40年以上にわたって着実に販売された最初のマッチドゴルフクラブのセットの設計を支援しました。
- 1933年、前述のとおり、オーガスタ・ナショナル・ゴルフ・クラブを設立しました。
- 彼はアメリカ陸軍航空隊の将校として勤務し、1944年6月6日のノルマンディー上陸の翌日現地に赴きました。
- 彼はゴルフに関するいくつかのベストセラー本と何百ものシンジケート新聞コラムを執筆しました。
- 彼の法律事務所はアトランタの超一流のひとつになり、市民をたくさん受け入れ救いました。
- 彼はニューイングランド、ミシガン、スコットランド、ウルグアイ、アルゼンチン、チリでコカ・コーラのボトリング会社を共同で支援しています。
- 1958年、彼はスコットランドのセント・アンドリュース市の自由勲章(名誉市民)を授与され、ベンジャミン・フランクリン以来のアメリカ人として初めての栄誉に浴しました。
(最後の章のボビーのお孫さんの回顧録にも登場します) - ボビー・ジョーンズは家庭人としても献身的な夫で父でした。
後年、彼は自分の家庭を振り返り、「妻と子供たちが第一でした。それから私の職業。ゴルフはそれに次ぐものです」と語っています。
ボビー・ジョーンズのお孫さんの回顧録
YouTubeにボビーのお孫さんの「祖父回顧録」があったので紹介します。実際は7分近いお話なのですが、ここまでに書いたことと重複しないよう要約しています。
『私はボブ・ジョーンズ.Ⅳです。
私は伝説のゴルファー、ボビー・ジョーンズの孫です。
祖父はイーストレイクにあるアトランタ・アスレチック・クラブがスチュアート・メイデンという新しいゴルフ・プロを雇い、スチュアートの後についてゴルフコースを回り彼のスイングを真似ることからゴルフを覚えました。
1916年、祖父が14歳のときにアスレチック・クラブ・イーストのクラブ・チャンピオンになったのです。周囲の人々に推されてペンシルベニアに行き、全米アマチュア選手権に出場しました。そして祖父は、予選でトップ、観衆はざわついたのです。
祖父はプロにはなりませんでした。現役時代を通じて生涯アマチュアのままでした。祖父はゴルフを奥深い崇高なものととらえていました。
1944年乃至1945年ごろから彼はいくつかの大きな変化に気づき始めたようです。
例えばシンクでお湯を流しているとき、お湯が高温で手がやけどするのに気づかない。片方の足が少し下を向き始め、つまずいたりするようになりました。
祖父は医者に診てもらったけれど何が原因かわかりませんでした。
やがて祖父は非常に珍しい病気、サリンゴ脊髄症(マクロファージコロニー刺激因子)と診断されましたがその病状にめげることなくできる限りのことをしました。
(マクロファージコロニー刺激因子=macrophage colony-stimulating factor;M-CSF、またはコロニー刺激因子=colony stimulating factor 1;CSF1)は世界的な難病のひとつ)
祖父の生活の一部であったゴルフやそれ以外のあらゆる活動の興隆に貢献しました。そして1945年から1971年に亡くなるまで、絶え間ないひどい頭痛に悩まされました。祖父はこのことについてはあまり触れたくないようでした。
祖父の最大の栄誉は、彼がまだ生きていた1958年、世界チーム選手権でセント・アンドリュースに行ったときでした。
彼はセント・アンドリュース市から”Freedom of the city(街の自由=名誉市民)を受賞することになっていました。祖父は大いに感動したそうです。
なぜなら、セント・アンドリュース市の自由を受け取るということは、彼らが彼を自分たちの仲間として受け入れるということだったからです。
祖父に与えられた街の市民権は極上の喜びだったようです。そのような称号を与えられたアメリカ人は、18世紀のベンジャミン・フランクリンただ一人でした。
授賞式の時驚くべきことが起こりました。祖父が市長の前で立ち上がったとき、むろん足に装具を着けてはいましたが、なんといつもの杖なしで立ったのです。
祖父はCSFの活動にも没頭しました。そのことは私の家族全員の原動力となりました。生活の軸だったのです。
CSFの行事に参加すると国の各地から集まったあらゆる立場の人々に出会います。キアリ骨髄腫財団の人たちのような情熱、愛情、献身を持った人たちとは、これまでの人生で出会ったことがなかったと話していました。この思いが祖父を支えたのかもしれません。
祖父はまたセレンガマイエリアという遺伝的な疾患にも苦しんでいました。この病気は外傷によって後天的に発症することもあるようですがはっきりとはわかっていません。私の祖父の場合もそうであったように、ある朝起きると首筋にコオロギのようなものができていました。
当初は病気名もわからず、指先のしびれや足の指のしびれなど他の症状も出始めました。しかし、1946年にようやく診断が下ったときには、彼の目に涙がたまるほど安心したようです。
世界に知られたヒーローでもありましたが晩年は厳しい病気に苦しみました。しかし祖父は栄光に包まれた幸せな人生だった信じます。
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