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我孫子市~大正・昭和の文人たちが夢のあと~古くて新しい街に行こう!

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みなさんいかがお過ごしですか?
筆者は年も改まり、ついでに心も新鮮なパッケージに変えて再スタートという心境です。

2024年はまず「我孫子市」の紹介から始めましょう。
我孫子市ってご存じですか?いらしたことありますか?
レトロな雰囲気の中に落ち着いた息吹を感じさせる町で、私は大好きです。

我孫子ってなんか難しい読みですよね。さっそく我孫子市の魅力をお伝えしましょう。

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「我孫子」は房総丘陵の一部、南斜面から手賀沼の絶景が

我孫子市の特色と魅力は①豊かな自然、②歴史的な文化財、③活気ある商業施設などが挙げられます。

我孫子市は海抜約20メートル(千葉はほとんど低地)で千葉県の北西部にある町です。東に印西市、南と西は手賀沼を隔て柏市があり、北は利根川をはさんで、茨城県取手市・北相馬郡利根町と隣接し、手賀沼と利根川にはさまれた細長い馬の背状の土地です。

我孫子市の地図

昭和30年4月に我孫子町、布佐町、湖北村が合併して我孫子町となったのち、1970年7月に市となった人口11万人の町です。

豊かな水と緑に恵まれ、都心から約40キロメートル、常磐線快速なら最速で31分の近距離にあることから、首都圏へ通勤する人々のベッドタウンの役割を担っています。

我孫子は古くから水戸街道と成田街道の要衝でした。江戸時代には水戸藩の本陣、問屋場などをはじめ、成田山参詣の場として発展し大正初期には東京近郊の日帰り観光地となりました。

そもそも房総半島には山らしい山はなく、せいぜい鋸山(海抜329.4m)くらいのもの。我孫子市は房総丘陵の一部であり、北には利根川(別名坂東太郎)、南はでっかい手賀沼があります。手賀沼は利根川水系の湖沼で、現在の面積は約4平方キロメートルですが、かつては10~12平方キロメートルもあったと言われています 。

手賀沼の産物は江戸時代から「江戸人」えどびとに美味として珍重されていました。カモなどの野鳥、淡水魚の宝庫としても有名で特に「手賀沼のうなぎ」は江戸にも聞こえた名物となりました。いまでも我孫子市内には鰻の老舗が点在しています。かつては子供たちがうなぎの稚魚を放流する様子もありました。

そして大正時代に入ると、満々と水をたたえた湖沼を我孫子の高台から眺める景色が素晴らしいと評判になります。多くの著名人たちの目に留まり、広がった口コミで我孫子の高台の南斜面に続々と文人たちが引っ越してきました。そして白樺派という流れができたのです。

我孫子の地名の由来はどこからきたの?

手賀沼は我孫子のシンボル的存在ですが、歴史や自然や観光スポットなどなどたくさんあるので次回に紹介します。今回は「我孫子」に絞りましょう。

「あびこ」と聞くと大阪府泉大津市の「我孫子」が浮かぶかもしれませんね。字が一緒なのでよく混乱します。
筆者は大ヒット漫画「ドラえもん」の作者を思い出します。こちらは藤子・F・不二雄(本名=藤本弘 )さんですが、パートナーだったのが安孫子素雄さんですね。筆者は一度だけゴルフコンペでご一緒したことがあります。でもこちらは「安孫子」さんと書き一字違いますね。

高野山公園
⇧ かつての古墳は手賀沼を見下ろせる景勝地の高野山公園に。

「我孫子」という地名は非常に難読な地名として知られています。

我孫子の地名を探すと「あびこ」の文字が出てくる最古の資料が、鎌倉時代末の正和2(1313)年の「尼しんねん譲(ゆずり)状(土地の相続をめぐる遺言書)」に「しもつさのくにあひこのむら(下総国我孫子村)」が見つかりました。

「我孫子」という文言の登場から察すると、どうも氏(うじ)や姓(かばね)という、血筋や職種にかかわる苗字とか人名として使われてきたようです。なお古い資料には「阿毘古」や「我孫公」という人の記録も残されています。

3世紀後半から始まった古墳時代、そして8世紀初頭にかけて大和政権は天皇制に移行し「日本」という国号を使い始めました。大和地方の有力豪族はそこに住む人々から貢納物を納めさせました。その当時、そこに住む人々に「我孫子」という名前が付けられたようです。最初は関西圏から、やがて全国に「我孫子」、「安孫子」、「吾孫子」などの地名や人名が広まっていきました。

我孫子には4世紀後半の水神山古墳(高野山こうのやま、全長69メートルの前方後円墳)があります。これは古墳時代から大和政権と強いつながりがあった大物がいたことを示しています。このことから「我孫子」の地名が付けられたと考えられています。

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豊かな自然の中に新しい商業施設が点在する街

我孫子市は交通の要衝として栄え、平安時代に創建された「法光寺」や「我孫子八幡宮」などの歴史的な寺社があります。これらは恒例の「我孫子まつり」や「法光寺まつり」などの祭りでおおいに賑わいます。また、市民が集い学べる「千葉県立歴史博物館」や、「千葉県立自然博物館」などの博物館もあります。

我孫子市は、近年商業施設の進出が急速に進み、市内には「イオンモール我孫子」や、「ららぽーとTOKYO-BAY」などの大型ショッピングモールができました。これらのショッピングモールでは、ファッションやグルメなど様々なジャンルの店舗が揃っており、買い物や食事を楽しむことができます。

我孫子をぐっと掘り下げて学ぶならふたつのインフォメーションセンターを案内しておきましょう。
ひとつは我孫子駅南口から徒歩3分の「我孫子インフォメーションセンター(アビシルベ)」、千葉県我孫子市の観光情報等を提供しています。

もう一方は手賀沼公園に近い「我孫子市生涯学習センター(アビスタ)」。こちらは市民が学習できるように図書館併設の喫茶や学習室まであります。

ゴルフスイング

そうそう、忘れてはいけないのは「ゴルフ繋がり」です。我孫子市内にはれっきとした名門「我孫子ゴルフ倶楽部」があります。

1930年に赤星六郎氏の設計で誕生した我孫子ゴルフ倶楽部から輩出したプロが「我孫子一門」を形成し一時ゴルフ界を席巻しました。師匠は林由郎さん、弟子には青木功さん(現JGTO会長)や海老原清治さん(林由郎さんのお隣に住んでいたのが縁)、鷹須南男さん(杉並学園ゴルフ部監督時代は石川遼プロも指導)がいます。

我孫子で立ち寄りたいスポット~文人たちの夢のあと

大正時代、まだあまり開発されていない時代の手賀沼周辺、そして明るい南斜面の高台とくれば誰でも住んでみたくなります。手賀沼自体、開拓以前なので今よりかなり大きい面積がありました。

我孫子マップ
⇧ 我孫子市のサイトから引用

口火を切ったのは柳宗悦のようです。彼に続いて武者小路実篤や志賀直哉など、いわゆる白樺派の文人たちが続々と列をなして我孫子へ移住(または別荘)しました。

世に知られた多くの名作は、ここ我孫子の地で執筆されています。我孫子は「北の鎌倉」と呼ばれています。

白樺派をはじめ、戦前日本文壇にまつわる大切な資料を展示しているのが白樺文学館です。ここは図のように志賀直哉邸跡地の前です。(後述)

そのまま南に5~6分歩くと手賀沼湖畔の文人の広場に出ます。狭い場所ではありますが読書好きならここだけは訪れてみましょう。

講道館柔道の創始者 嘉納治五郎、朝日新聞の杉村楚人冠すぎむらそじんかん、日本郵船の大谷登、三菱の三谷一二みたにいちじ(のちの政治家で福山市長)、帝大の村川堅固博士、作家の志賀直哉、武者小路実篤、その他、英国人の陶芸家バーナードリーチ、法律家の田中耕太郎や白樺派の文人達が我孫子の自然と明るい陽射しを愛し、神秘的に光る手賀沼の湖面に目を細めて日々の暮らしを楽しんだのでしょう。

「白樺派」とは?

白樺派といわれる文人たちとは、明治末期から大正時代にかけて活躍した自然主義や個人主義に傾倒した作家のことです。

白樺派の代表的な作家には、志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎、芥川龍之介などがいます。
彼らは文学雑誌「白樺」を発行し、自由な思想や感情を表現しました。

白樺派の作品は人間の内面や心理を描くことに重点を置き、社会的な問題や現実にはあまり関心を示しませんでした。彼らの文学は、日本の近代文学の中でも独自の色彩を放っています。

行ってみたいスポットピックアップ

志賀直哉邸
⇧ 志賀直哉が執筆に使った書斎。自分で平面図を書いて建てた
  • 志賀直哉邸宅跡
    志賀直哉は「小説の神様」と呼ばれた作家です。まさに白樺派を代表する小説家といえましょう。
    我孫子には1915年から8年間居住しました。白樺派の若い芸術家たちとの交わりからのちに「和解」を発表。代表的な作品を残したのも我孫子です。

    母屋は残っておらず現存するのは写真の書斎のみ。
    ここは市民の憩いの場で、「緑雁明がんみょう緑地」としても親しまれています。
       
  • 武者小路 実篤邸跡
    1916年から約3年間住んだのが我孫子です。白樺派の志賀直哉、柳宗悦たちとの交流は深く、日々舟や徒歩で家族ぐるみの交流をしました。交流を重ねたのは岸田劉生、犬養健、梅原龍三郎、安倍能成、長与善郎ら錚々たる若手芸術家たち。
    さらに「白樺美術館」設立を提唱、日本で初めてロダンから贈られた彫刻が我孫子に届きました。
        
  • 高野山桃山公園こうのやまももやまこうえん
    親水広場から歩くと5~6分で到着。手賀沼を眺めるには最適な観光スポット!
    先ほども紹介しましたが、千葉県北西部では最大の古墳を利用した高台から広大な手賀沼の景色を一望することができます。
       
    公園を下ると水量豊かな我孫子らしい湧き水があります。この公園ではこの湧水を使い、かつての里山の風景をビオトープとしてスペース残しています。夏になると子供たちが網を片手に水辺の動植物を観察する光景も見られます。
        
  • 手賀沼公園
    JR我孫子駅南口からまっすぐ南に向かい、「公園坂通り」を下れば約900mで手賀沼公園に出ます。目印は「アビスタ」という市の施設になります。ボート乗り場や季節によっては白鳥ファミリーを身近で見ることができます。

    この公園にはバスケットボールリングやテニスコートがあり予約すると借りられます。

    また子供たちに人気なのが「ミニSL」。3~11月の土・日・祝と夏休み期間中にはたくさんの子供が楽しんでいきます。
    客車を引っ張る機関車は、ディーゼルタイプにメルヘンタイプ、そして東北新幹線はやぶさにソックリなタイプの3種類!大人も童心に帰って楽しんでいます。
       
  • 手賀沼遊歩道
    手賀沼公園から東の手賀大橋に向かって、およそ5.3kmは湖岸に続く我孫子の遊歩道があります。(現在延伸工事中)。市民がここでランニングやウォーキングを楽しむ場所です。
       
    途中には「文人たちの広場」があり、我孫子にゆかりのある作家たちのボードがあります。
    沿道には15種類以上の桜木が植えられていて、桜のシーズンは夜のライトアップもあります。
        
  • 鳥の博物館(2024年3月31日まで改装工事で休館)
    1990年に開館した鳥専門の施設で通称は「鳥博」。
    日本で唯一の鳥類専門の研究・展示する博物館です。手賀沼のほとり、親水広場の道路向こうに建ち、「人と鳥の共存を目指して (Harmony among Birds and People!) 」というメッセージを掲げています。フィールドミュージアムを標榜し、自然観察会「あびこ自然観察隊」や、定例探鳥会(毎月第二土曜日)「てがたん」など活動しています。(工事期は休業)
         
  • 手賀沼周遊~レンタサイクル
    広い手賀沼を自転車で一周してみませんか?
    レンタルできるステーションは現在9個所あります。大人500円、小学生以下300円、(土・日・祝のみ)
    詳しくはこの項の下記のサイトで
        
  • 親水広場・水の館
    水に親しみつつ、手賀沼の水環境保全の大切さを実感できる施設です。
    来場者向けサービスとして農産物直売所や飲食等の施設が併設されていてたくさんの市民や市外からの観光客に喜ばれています。
        
    あびこ農産物直売所「あびこん」
  • 営業時間:午前9時から午後6時
  • レストラン「旬菜厨房 米舞亭(まいまいてい)」
  • 営業時間:午前11時から午後5時
サステナブルツーリズム~心に栄養を~人と自然の調和を体験
サステナブルツーリズムは次世代に受け継がれていくべきものです。これこそ旅人と観光地の住民が共栄共存していく道しるべで、サステナブルツーリズムはまさに持続可能な旅の新しいカタチです。その未来には自然の保護や人間そのものの尊厳が掛かっています。

我孫子市にゆかりが深い知名人

古谷田 奈月 (こやた なつき) 1981年10月5日~    Wikipedia 
小説家。2019年『神前酔狂宴』で第41回野間文芸新人賞受賞。
中村敬斗(なかむらけいと)2000年 7月28日~    Wikipedia
プロサッカー、日本代表選手 2023年8月   ポジションはフォワード、リーグ・スタッド・ランス(フランス)。2023年3月15日、日本代表メンバーに初選出。6月15日、キリンチャレンジカップ・エルサルバドル戦で後半開始から途中出場し代表初得点、9月12日には同大会で代表初先発を飾り、2得点を挙げた。
青木 功  (あおき いさお1942年8月31日~      Wikipedia
2016年から日本ゴルフツアー機構(JGTO)会長。1980年に全米オープンで準優勝、1983年には日本人で初めてPGAツアーで優勝を果たすなど、尾崎将司、中嶋常幸と共にAON (エーオーエヌ) と呼ばれる日本を代表する名ゴルファーの一人である。日本ゴルフツアー通算51勝は歴代2位である。
山下 清(やました きよし) 1922年3月10日~1971年7月12日 Wikipedia
式場隆三郎は1936年、千葉県市川市で国府台病院(今の式場病院)を立ち上げました。
当時から我孫子市に住んでいた思想家の柳宗悦らとも深い交流があり、顧問の医師を務めていた障害児施設(八幡学園)で山下清と出会います。そしてその才能に驚き広く世に知らしめのです。当時の山下画伯は我孫子市の駅売店「弥生軒」で住み込みで働いていました。
柳 宗悦(やなぎ むねよし)1889年3月21日~1961年5月3日   Wikipedia
美術評論家、宗教哲学者、思想家。白樺派にも参加。芸術を哲学的に探求、日用品に美と職人の手仕事の価値を見出す民藝運動も始めた。著名な著書に『手仕事の日本』、『民藝四十年』などがある。
バーナード・リーチ(Bernard Howell Leach)1887年1月5日~1979年5月6日  Wikipedia
イギリス人の陶芸家、画家、デザイナー。我孫子を拠点とした白樺派や民芸運動に関わる。日本民藝館の設立にあたり、柳宗悦に惜しみない協力を果たした。
武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ)1885年5月12日 – 1976年4月9日   Wikipedia
小説家・詩人・劇作家・画家。貴族院勅選議員。生まれは華族、トルストイに傾倒し「白樺」の創刊に参加。天衣無縫の文体で人道主義文学を創造し、「新しき村」を建設して実践運動を行った。伝記や美術論も数多い。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。名誉都民。
志賀 直哉(しが なおや)1883年2月20日~1971年10月21日)    Wikipedia
小説家。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。石巻生まれ、明治から昭和にかけて活躍した白樺派を代表する小説家のひとり。我孫子市には「暗夜行路」を執筆した家が保存されている。
柳田 國男(やなぎた くにお)1875年7月31日 – 1962年8月8日)    Wikipedia
民俗学者・大日本帝国憲法下で農務官僚、貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。日本学士院会員、日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
「日本人とは何か」という問いの答えを求め続けた。山の生活に着目し『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者。
杉村 楚人冠(すぎむら そじんかん)1872年8月28日~1945年10月3日    Wikipedia
随筆家、俳人。本名は廣太郎(こうたろう)。別号は縦横、紀伊縦横生、四角八面生、涙骨など多数。 朝日新聞社本社記事審査部長、取締役、監査役を歴任。戦後を代表するジャーナリストのひとり。
嘉納(加納) 治五郎(かのう じごろう)1860年12月10日~1938年5月4日     Wikipedia
は、日本の柔道家、教育者、貴族院議員。講道館柔道の創始者。日本のオリンピック初参加に尽力するなど、日本におけるスポーツの道を開いた。「柔道の父」と呼ばれている。
塙 宣之(はなわ のぶゆき)1978年3月27日~            Wikipedia
土屋伸之とコンビで「ナイツ」を結成中。マセキ芸能社所属のお笑いコンビ、司会者、漫才師、漫才協会会長、我孫子市ふるさと大使。THE MANZAI 2011準優勝。M-1グランプリ2008-2010ファイナリスト。血液型A型。ネタ作成担当。
血脇 守之助(ちわき もりのすけ) 1870年3月2日~1947年2月24日    Wikipedia
日本の歯科医師。日本歯科医師会会長。東京歯科大学の創立者の一人。明治後期から昭和初期にかけて日本の近代歯科医療制度の確立に尽力した。また、野口英世の経済的支援者として知られている。

古くて新しい素敵な町「我孫子市」のまとめ

我孫子市の紹介、いかがでしたか?できるだけわかりやすく配置しましたが、実はまだまだご案内したいところがいっぱいあります。でもスペースがないので次の機会にとっておきましょう。

白樺文学館
⇧ 白樺文学館の入り口。一度は訪れたい貴重な資料の宝庫。

中でも「白樺文学館」は書いておきたいスポットでしたね。
ここは大正時代、柳宗悦が移住してから「素晴らしい土地だよ」とでも口コミしたんでしょうか、武者小路実篤や志賀直哉など、白樺派の文人たちが我も我もと列をなして移住してきました。

あの日本文学のモニュメントとなる素晴らしい作品がこの地で執筆されたなんて、我孫子市民の皆さんは誇りに思っているでしょうね。

その白樺派をはじめ、大正・昭和と戦前日本文壇にまつわる貴重な資料を展示しているのが白樺文学館です。志賀直哉邸跡は目前、読書が好きな方はここを出て手賀沼公園の文人の広場に行けば、気分は自然とレトロな気分に浸れるでしょう。

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