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北大路魯山人~奇人か天才か~波乱万丈の生涯

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今日の人物クローズアップにご登場いただく方は「北大路魯山人きたおうじろさんじん」です。非常にレアな運命に翻弄されながらも今の絵画や陶芸の世界だけでなく、料理界にあってもおおきな足跡を残しました。
みなさんもこの名前を一度は耳にしているかもしれません。

北大路魯山人、規格外の破天荒な異才

米のイラスト
⇧ 魯山人は米が好きだった。

北大路魯山人を一言で評するのはちょっと難しい。
なんといいましょうかねぇ、レディーメードの服は絶対着ない人、ジューシキというコンセプトゼロ。生活様式や生き方は他人と比較などしない「男のニヒリズム」を貫きました。

発言は毒舌であり過激でしたがよく生きてこれたと感心するほど。逆に今の時代ならヒールとして受け入れられたかもしれません。

とにかくすべてが「天上天下唯我独尊てんじょうてんがゆいがどくそん(この世界に我よりも尊いものはないという仏教用語)」と独特の流儀です。

ただ周りがドキッとする発言以上にそれを裏付ける才能と説得力はまさに「嚢中の錐のうちゅうのきり」、今でいうマルチタレントでした。今ならマスコミにモテモテだったと思いますね (^^♪)。

魯山人は母の不貞で生まれ落ちた子

神社のイラスト
⇧ 神社のイメージ

私は魯山人の出生にその後の人生がインスパイアされていたような気もします。運命とはいえ生を受けたときの環境はあまりにもレアな序章でした。

母は京都の上賀茂神社の社家(しゃけ)北大路清操である登女(とめ)の次男として生まれました。社家とは代々神社の奉祀を世襲してきた家(士族)という身分のこと。
伊勢神宮のような大社は別にして、身分は明治維新以降消滅したこともありこの時代地方の社家は貧しかったようです。

実は魯山人は母の不貞がもとで生まれ落ちた子です。そのことを知った父(戸籍上の)は魯山人が生まれる4か月前に割腹自殺で自らの命を絶ちました。実の父の名前はわからないまま。
魯山人には「房次郎」という名前がつきました。

この出生の事実は房次郎にとって相当重いものだったでしょう。魯山人はのちに自分の出自について強い鬱屈を持ち、自分の人格形成に甚大な影響があったということを話しています。この辛さは生涯頭から離れることはなかっただろうことは想像に難くありません。

これ以上ない不幸を背負った幼少期

書生のイラスト
⇧壮絶な出生の秘密生涯悩む

その後母は滋賀県の知り合いの農家に房次郎を預けたまま失踪。しかしこの農家では房次郎の面倒を見ないまま放置していました。

1週間たってこの農家を紹介した巡査の妻が訪れ、初めてそのことに気づき連れて帰りました。巡査は自分の子供として入籍し名前は服部房次郎となります。

しかし不運はとどまることがなく、その後服部巡査自身が行方不明になります。さらにその年の秋、今度は巡査の妻が病死、服部家の養子の夫婦が房次郎の面倒を見ることになります。
その頃、義兄は精神異常が発症してついに死亡。房次郎が4~5歳のころ義姉は房次郎と自分の息子を連れて実家に戻ったのですが、義姉の母は房次郎を邪魔ものと嫌い、毎日激しい虐待を加えました。

はた目にもひどかったらしく、見かねた近所の人が木版を生業とする福田武造夫婦と養子縁組をさせました。名前が福田房次郎になり少し落ち着きました。

この家で6歳から33歳になるまでの約27年間、毎日炊事などの家事を行いその中で味覚と料理の基本を学んだのです。「食」が身近な存在だったことは将来に大きな希望を持たせたわけです。

魯山人語録~天然の味に勝る美味なし

和食の画像
⇧ 食事自体が芸術であると考え、料理と器にこだわりました。

毎日家事で走り回っているとき、ある画家の一筆書きに反応します。

それはその後京都画壇で知らぬ人はいないといわれた竹内栖鳳による作品で、彼は心を奪われました。「縁は異なもの味なもの」、才能の片鱗が刺激され絵の道を志します。

その後独学で始めた書道でも天才の才能が開花。21歳のとき日本美術展覧会に隷書「千字文」を出品して一等を獲得します。やがて上京し岡本可亭(岡本太郎の祖父)の内弟子になりついに独立。
房次郎は懐に入ったお金でせっせと書画骨董の収集と研究、さらに惜しげもなく外食につぎ込み順調に開花していきました。

魯山人はマルチ人間だと書きましたが、肩書を書くなら画家、陶芸家、料理研究家、書道家、水墨画、漆芸家など多彩な才能を発揮した「芸術家」です。
先日もテレビの「なんでも鑑定団」で魯山人の焼き物が500万円だと評価され、客席の皆さんを驚かせていました。

魯山人の名言に「食器は料理の着物である」があります。今の時代は料理と食器のコンビネーションはいろいろ言われますが、当時はそんな感覚はまったくなかったんですね。食事を総合的に見つめた魯山人は自分が理想としていた「美」の世界を極めていきます。

この時代から食べる行為自体が芸術の範疇であると考えていたようです。

驚きの魯山人の人生「エピソード集」

こう書いてくると魯山人は不幸な生い立ちでありながら、ひとかどの人として尊敬されて生きたと思われるかもしれませんね。
それはちょっと違います。おそらくは悲惨な幼少期のトラウマが関係しているに違いありません。

残された周囲の関係者の評判はすこぶる悪い。とにかく魯山人は自己中心的、口の悪さは最悪、人に対しても冷たい男だった。お金はあるのに使うときは渡す相手にとても口うるさかった、その時の気分次第で成り行きが変わる。
こんな人なのに社会から葬られることがなかったのはなぜだったんでしょうね?

ろくろを回す光景
⇧ 焼き物への傾注は年ごとに強くなっていきました。

魯山人はこれまで研究してきた美食哲学の集大成ともいえる「星岡茶寮」を開店します。

この時口にしたのが「食器は料理のきもの」です。

民間の建築としては当時あまり例のない冷暖房をとり入れ、料理人には白スーツを着せるというのもほかの店にはないことでした。

皇室にはじまり各界のVIPをゲストに迎えた星岡茶寮は、大正昭和を通して日本随一のレストランだったのです。

今は常識になった”テーブルデコレーション”など当時は誰も考えませんでした。「食べる」という行為を煎じ詰めるとなるとそこがポイントなんだという魯山人の考え方がみえてきます。

ついには誰が焼いたかわからない器など使えたものではないとばかり、鎌倉に7,000坪もある工房まで作って自分で焼くのです。この徹底しているところが変人の変人たる所以。

魯山人が立ち上げた「星岡茶寮」は各地に拡大。しかし最後は魯山人の唯我独尊振りと無軌道な金遣いに業を煮やした共同経営者から三行半を宣告されます。その後の魯山人は細々と絵など描いて生活しますが、ピーク時の勢いは全くなくなってしまいました。

1959年に寄生虫が原因の肝硬変のため横浜医科大学病院で死去。死後39年後の1998年、管理人の放火と焼身自殺により魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失してしまいました。魯山人は波乱万状の生涯をまるで1本のドラマのように生きたのです。

ふるさと納税

空前絶後~北大路魯山人の知られざるエピソード

北大路魯山人は日本の代表的な画家であり書家、陶芸家、はたまた料理人として有名ですが、彼の人生には一般に知られていない面白いエピソードがたくさんあります。今回はその中からいくつかを紹介します。

フランスのレストラン
⇧ 1954ロックフェラー財団の招きで欧米へ。展覧会と講演会を開催。
  • 魯山人は幼少期から絵を描くのが好きでしたが当初は反対されていました。

    ある日、父親が出かけた隙に魯山人は自宅の壁に大きな絵を描きました。ずいぶん叱られたそうですが、最後は絵の出来栄えに感心してしまい、魯山人に絵の勉強をさせることを許しました。
             
  • 魯山人は機会があってフランスにいったことがありました。パリではフランス料理に興味を持ちました。

    ある日、彼はミシュラン三ツ星のレストランで食事をしましたが、料理に満足できませんでした。
    彼は店員を呼んでクレームを言い、ついには自分から厨房に入って料理を作り直しました。その料理は店のシェフや客に大絶賛されという話が残っています。
                
  • 魯山人は陶芸家としても名声を得ましたが、彼の作品は非常に高価でした。彼は自分の作品に値段をつけることを嫌っていましたが、ある時期からは一律で100万円と決めました。

    しかし、それでも買い手が後を絶ちませんでした。そこで「まだいけるんじゃないの?」と彼は値段を200万円へ、さらに500万円に上げましたが絵はそこそこ売れました。
    しかし彼は自分の作品が高く売れることに大した反応も示さなかったそうです。
                    
  • 北大路魯山人は独学で日本画を学びました。
    絵を描くことが好きでしたが正式な美術教育を受けたことはありませんでした。(そこがすごい!)

    彼は図書館や美術館で日本画の名作を研究し、自分なりの解釈や表現を試みました。彼の作品は伝統的な日本画の要素と西洋画の影響が混在した独自のスタイルで、国内外から大きな評価を受けました。
                 
  • 北大路魯山人は戦争に反対しました。
    第二次世界大戦中にも日本画を描き続けましたが、戦争に対しては批判的でした。

    彼は戦争画や軍国主義的な作品を拒否し、自然や平和をテーマにした作品を多く制作しました。また、戦時下の検閲や圧力にも屈せず、自分の思想や信念を貫きました。

    彼は戦争によって多くの友人や弟子を失い、自身も空襲で家や作品を焼失する苦難に遭いましたが、終戦後も日本画の発展に尽力しました。
    (それで思い出すのはピカソのゲルニカ、彼も戦争反対を絵にしていましたね)

以上、北大路魯山人の知られざるエピソードをご紹介しました。彼の作品は今でも多くの人々に愛されており、日本画界に大きな影響を与えています。
北大路魯山人の生涯や作品に興味がある方はぜひ美術館や展覧会でご覧になってください。

春風萬里荘~「春風萬里荘」の紅葉を観に行こう!

「春風萬里荘(しゅんぷうばんりそう)」は北大路魯山人が住んでいた古民家です。元は北鎌倉にあったのですが1965年笠間市に移築されました。移築された母屋は神奈川県厚木あたりの大庄屋だった伊東家の屋敷として、江戸時代中期に建造された由緒あるものです。

春風萬里荘
⇧ 紅葉がとてもきれいな笠間市の春風萬里荘の庭。日動火災美術館前です。

いまの春風萬里荘は笠間日動美術館の分館となっています。

個人的な感想ですが、私は茨城県笠間市という人口73,600人の小さな町が大好きです。何度も訪れていますがそのたびに新しい出会いがあります。

この建物にすっかりほれ込んだ魯山人は昭和初期に頼み込んで譲り受け、北鎌倉に移築してずっと住みました。

中に入るといまや住まいというより「資料館」という印象。魯山人の愛用した食器その他の興味深い品々がたくさん保存してあります。

案内の方から説明を聞いていると、この建屋の中の空気がどこか違うような気がします。すぐ近くに魯山人がいてこっちを見ているような、とても身近に感じた「時」が流れていました。

そろっと外に出ると母屋は日本の原風景に観られる茅葺屋根、敷地内の地形をそのまま生かした回遊式庭園に心が癒されます。

その母屋から繋がっている「夢境庵」は千宗旦によって作られた茶室「又隠」を参考にし、魯山人が自ら設計したものです。
魯山人は茶室の内部とか、母屋のデザイン、洋間の作りなど細部に相当こだわったと聞きました。

さらに母屋の裏手にある京都の龍安寺の石庭(または妙蓮寺庭園)を模した枯山水庭園には思わず目を細めました。ここには心地の良い空気がありあました。

何年前だったか忘れましたが、フランスの俳優のジャン・レノさんが本人の強い希望でここ春風萬里荘を訪れたということです。
皆さんもこの秋に魯山人に会いに行きませんか?今なら紅葉がきれいです。行ってみましょうよ、笠間に。

魯山人が愛した寿司などを楽しむツアーが開催~茨城

JRグループと茨城県などが県の魅力を全国に発信する大型の観光企画の一環で、芸術家、北大路魯山人が過ごした古民家で、魯山人が愛したすしなどを楽しむツアーが笠間市で開かれました。

北大路魯山人は明治から昭和にかけて陶芸や書など多彩な分野で活躍した芸術家で、美食家としても知られていて、笠間市の「春風萬里荘」は魯山人が北鎌倉で過ごした建物を移築した古民家です。

ツアーはこの古民家で魯山人が愛したすしやゆかりの器を楽しんでもらおうとJRグループなどが行う「茨城デスティネーションキャンペーン」の一環で企画され、鹿児島や新潟など全国から20人が参加しました。

寿司を出したのは、東京の「銀座久兵衛」の主人で、先代と魯山人がマグロとしゃりのバランスをめぐり議論したエピソードを披露しました。

 引用元 NHK 茨城県のニュース|NHK NEWS WEB
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