ゴルフクイズなら「東大王並み」を自認しているオヌシ!そうそう、君のことじゃよ。
どうかね?その実力を試してみないかな?ワシ(ゴルフクイズの神)が挑戦をお受けしましょうぞ。
まぁやってみなはれ、でも知らなくて当たり前というレベルに近い。ヒントが限定されておるからのう、ホホホ
今回は「ゴルフレジェンド編」、チョー難問を5問用意したぞよ。
2問正解なら「アマチュア・シングルクラス」、3問正解なら「プロゴルファー並み」、4問正解なら「ゴルフクイズ・殿堂入り」、全問正解なら「神の君」という称号を贈呈しようではないか。(全問正解の予測値=100人に1人!)
今日登場の5名のレジェンドにはある共通点があるんじゃよ。さぁ、掛かってきなはれ!
「彼って誰?」~ゴルフレジェンドのクイズが5問
第1難問・ニックネームは「アイスマン」、それって誰のこと?
<ヒント>彼は致命的な交通事故を起こしたが奇跡的に復帰、なんと16か月後には復活勝利!
彼の名言「ゴルフは単純なスポーツだ。しかしそう理解するのには時間がかかる」。目が鋭いのでニックネームは「The Hawk (鷹)」。
▶タイガー・ウッズ ▶ジャック・ニクラウス ▶ウオルター・ヘイゲン ▶ベン・ホーガン ▶バイロン・ネルソン ▶サム・スニード ▶ジーン・サラゼン ▶ハリー・バートン ▶トム・モリス
第2難問・PGAのプレーオフで、0勝-8敗の記録保持者は誰?
<ヒント>しかし彼はマスターズを2度も勝っているんだ。2度目の優勝は辛かったろうよ。開幕5日前に「師匠の死」に遭遇して落ち込んでおったからのう。ライダーカップのキャプテン経験もあるパットの名手じゃよ。
▶フィル・ミケルソン ▶ダレン・クラーク ▶フレッド・カプルス ▶トム・ワトソン ▶トム・カイト ▶ベン・クレンショー ▶コリン・モンゴメリー ▶デービス・ラブⅢ ▶ザック・ジョンソン ▶ベルンハルト・ランガ-
第3難問・将来は住む町の市長に立候補すると言ったのは誰?
<ヒント>約10年前、彼はタイガー・ウッズが元住んでいた家に一時引っ越しておった。その後再度引っ越しした町でアイスクリーム店を開業したんだ。この飛ばし屋は仲間とともにバンド「Golf Boys」を組み、YouTubeで公開し動画の閲覧数10万回毎に1000ドルの寄付を実行したんじゃ。
▶コリン・モリカワ ▶パトリック・リード ▶セルヒオ・ガルシア ▶ジャスティン・トーマス ▶バッバ・ワトソン ▶ジャスティン・ローズ ▶フィル・ミケルソン ▶ジョーダン・スピース ▶ブラント・スネデカー
第4難問・3度目の結婚は妻の病気のためわずか3カ月で終わってしまった。それって誰のこと?
<ヒント>そのお相手はなんとCBSスポーツの広報バイスプレジデントだってか!長年のコンビだったキャディがALS(筋萎縮性側索硬化症)にかかってしまったことは有名。彼は3年連続でヴァードントロフィーを獲得した。日本国内には彼の名前を冠したゴルフコースがある。
▶アーノルド・パーマー ▶ジャック・ニクラウス ▶ゲーリー・プレーヤー ▶アーニー・エルス ▶ホセ・マリア・オラザバル ▶セベ・バレステロス ▶トミー・アーマー ▶ニック・ファルド ▶トム・ワトソン
第5難問・彼が来日したとき、なんと愛用のパターを盗まれてしまった!それって誰のこと?
<ヒント>父はドイツ系アメリカ人で薬剤師。彼はオハイオ州立大学で薬学科を専攻し、自分も薬剤師になるつもりだった、生涯アマチュアのままで保険を売って生計を立てようとしたんじゃのう。
また彼は日産自動車「グロリア」ほかのCMキャラクターを通算8年間にわたって務めた経験がある。
▶アーノルド・パーマー ▶ジャック・ニクラウス ▶フレッド・カプルス ▶トム・ワトソン ▶ザック・ジョンソン ▶ジム・フューリック ▶デービス・ラブⅢ ▶ハル・サットン ▶ジーン・リトラー
本日の出題「チョー難問5問」~正解はこれだ!?
ベン・ホーガンは生涯鋼のような「完璧主義者」を貫いたゴルフ史の巨人なんじゃ。
そう、思い起こせばベンが9歳の時じゃったかのう、ベンの目前で父親のチェスターが拳銃自殺してから生活はどん底じゃった。
ベンは少年期に故郷のフォートワースにあるゴルフコースでキャディをし、目からゴルフを学習したんじゃ。その後17歳でプロに転向、キャリアの初期はフック病との闘いじゃった。「フックはポケットの中のガラガラヘビだ」と、まさに蛇蝎の如く嫌っておった。
途方もない苦労の末フックがフェードになってからは勝利の連続じゃったのう。第2次世界大戦に出兵して帰還後は1946年にPGA復帰、メジャー初優勝の1946年全米プロゴルフ選手権を含む13勝を挙げおった、ハハハ。
1945年8月から1949年2月まででホーガンは37回優勝。しかし1949年に自家用車を運転中バスに正面衝突したんじゃ。
妻をかばって身を投げ出したときに重傷を負い、医者には「二度と歩けないだろう」といわれ涙に暮れておったわ。
ところがその16か月後、ベンが全米オープンで優勝したときアメリカ中が沸騰してしまった。ホールアウト後は「今日の36ホールは激痛でいつ倒れるかばかり気にしていた」と語っておるわ。
翌日の新聞に「メリオンの奇跡」と書かれた。
PGAツアーでのキャリア292大会で、ベン・ホーガンは47.6%でトップ3入りを果たした。同じく292大会中241大会でトップ10入りを果たしたなどといっても、信用されないのではないかと心配するほどの成績じゃったわ、ホホホ
PGAツアー64勝~メジャー優勝9回
・マスターズ:1951年、1953年
・全米オープン:1948年、1950年、1951年、1953年
・全英オープン:1953
・全米プロゴルフ選手権:1946年、1948年
・1974年に世界ゴルフ殿堂入り
世界一美しいといわれたフォームを持つベン・ホーガンのゴルフ教本は、いまでも若手プロたちが読んでいるそうじゃ。
Ben Hogan’s Five Lessons: The Modern Fundamentals of Golf (木)ベン・ホーガンの5つの教訓:ゴルフの現代的基礎)
ベン・クレンショーはテキサス大学を出て1971年に21歳でプロ転向した。それまでに蓄えていた実力は本物だったからのう、小さな大会ですぐに3回優勝。
しかし1979年の全米プロゴルフ選手権でサドンデスで敗れて以降、メジャー大会で5回も準優勝というツキ(?)のなさ。
しかし奮起して1984年のマスターズで優勝したんじゃ。このころは甲状腺の病である「バセドウ病」に悩まされていたが実によう頑張ったのう。
そして歴史に残る1995年のマスターズを迎えた。父以上に慕っていた恩師で師匠の「ハーヴェイ・ペニックが開幕直前に死亡!
彼にとっては激震じゃった。
10歳から手ほどきを受けていた師を失ったショックがひどく、一時はマスターズ欠場も考えたそうじゃが周囲に支えられて出場。
結果は見事優勝して画像のような18番グリーンの有名なシーンになったのだ。
この勝利は時を経てクレンショーの殿堂入りを後押しした。
オーガスタナショナルの18番のシーンにゴルフ界全体がクレンショーと一緒に泣き、ハービーのために勝ったというほろ苦い感情に打ちひしがれたんじゃね。
この勝利を見た人の多くが、”ジェントル・ベン”が単なるツアープレーヤーではないことを知ったんだ。ゲームへの明白な愛情と、その歴史を温かく受け入れるクレンショーはゴルフファンの心を鷲づかみしたんじゃよ。
ベン・クレンショーは1999年のライダーカップ(ボストン郊外のブルックリンラインのコース)でキャプテンを務めた。
最初の2日間は調子が悪く(そもそも分が悪い)欧州チームに抑え込まれたが、最終日の日曜に大爆発!予想外の逆転で貴重な勝利に結びつけた。これはベンの功績だと称えられたんだ。
過去から現在に至るPGAツアーのプロたちに、「過去100年で最もパッティングがうまいと思うプロは?」と問えば、圧倒的多数が「ベンクレンショー」と答えるに違いあるまいて。
バッバ・ワトソン(ジェリー・”バッバ”・ワトソン=通称 Gerry “Bubba”Watson、本名はGarry Lester Watson Jr.~1978.11.5~)
フロリダ州バグダッドでジェリー・シニアとモリー・マリー・ワトソンの間に生まれ、幼少期からゴルフに興味を持ちはじめ毎日熱心に練習しておったよ。
ニックネームのBubbaは”たくましい男”とか、”肝っ玉のでかいやつ”という意味のニックネームなんじゃ。
元プロアメリカンフットボール選手のバッバ・スミスにちなんで父親がつけたことはあまり知られていない。
レフティー(左打ち)ゴルファーで、とにかく「飛ばし屋」。2007年はドライバーの平均飛距離が315.2ヤードでPGAトップだったのう。
高校のフォークナー州立コミュニティカレッジではすでに有望なゴルファーとして名前が通っておった。ジョージア大学時代はサウスイースタン・カンファレンスのタイトルに導く主役を果たしたんじゃよ。
そして2001年に23歳でプロに転向したわけだ。
彼のキャリアの最高峰の成果はマスターズのタイトルを獲得した2012年と2014年に勝利したこと。2015年にはPGAランキング史上最高の2位を記録しさらなる高みに到達したんじゃのう。
苦悩とは思っていないようじゃが、ワトソンはアンジェラ・アンジー・ワトソン(旧姓ボール)というカナダ人と結婚した。身長が6フィート3インチ(191cm)もあり元プロ・バスケットボール選手じゃ。
だが彼女は2009年に脳下垂体の肥大と診断され闘病しているんだ。(長身の原因でもある)
バッバが不安に苦しんでいたことを知る人は少ないんじゃないかな?彼の著書「Up and Down: Victories and Struggles in the Course of Life」でカミングアウトしているんだよ。
彼の不安の原点は父親の死があったようだ。あるときパニック発作で病院に運ばれたとき、バッバ・ワトソンは膝をつき「神が自分の命を奪いに来た」と観念したそうじゃ。
2017年当時、胃の病気で体重が20kg近く減って73.5kgまで減少し、ゴルフもままならず引退を考えていたと書いてある。
しかし自分の人生を今終わらせたいと切り替えたワトソンは、信仰と妻のおかげで回復できたと語る。
ワトソンは結婚して17年になり2人の養子がおる。もともと慈善活動に熱心な性格じゃったからのう。
あのパニック障害で床に倒れて主が私を連れて行ってくれるように頼んだときのことをこう話している。
「私は妻の顔が浮かびました。ちょっと待って、これが私の人生の最後の10分なら、これが最後の30分、最後の日、最後の2週間、それが何であれ、私はもっと彼女のためにも、子供たちのためにももっと頑張らなければいけないのではないかと気づいた」と。そして蘇ったのだ。
本名はトーマス・スタージェス・ワトソン(Thomas Sturges Watson=1949年9月4日生まれ)。
トム・ワトソンは非常に紳士的で誠実で、いかにもゴルフの品格にマッチしたプレーヤーなんじゃよ。いくつかの有名なエピソードを紹介しよう。
1981年のあるトーナメントで誰ひとり見えるアングルがなかった場所、それも深いラフにあったボールをわずかに動かしたと進言し自分自身にペナルティストロークをコールしたことで優勝を逃しているんだ。わしはボビージョーンズのことを連想したのう。
またこんなこともあった。1991年のこと、マスターズの最終ラウンドをプレーパートナーのイアン・ウースナム(英国・ウエールズ出身)とラウンドしておったんじゃ。
ところが地元意識の強いパトロンたちがウーズナムに対して心無いヤジを飛ばすのにワトソン自身が心を痛めていたんじゃ。
それもわからないでもない、パトロンたちはワトソンが3度目のマスターズタイトルを獲得する瞬間が見たかったんじゃろうて。
14番ティーでついにワトソンがキレた。パトロンにマナーを守るよう声掛けをしてウーズナムはだいぶ落ち着いたようじゃった。
ワトソンは後に「礼儀作法の崩壊があり、偏った応援ばかりでは気分が良くない」と語っておる。(結果的にウーズナムが優勝)
ワトソンはメジャー優勝8回(歴代6位)、通算勝利数71回、PGAツアー39勝(賞金ランクトップ5回)、チャンピオンズツアー14勝、59歳(2009年)で最後のメジャー大会・全英オープンではプレーオフで敗れるという快挙。ライダーカップではキャプテンを含めて4回の優勝経験がある。
宮崎のフェニックス・カントリークラブには「トム・ワトソン・ゴルフコース」がある。
プロ入り2年目(1973年)のワトソンは23歳。前年の賞金ランクはやっと78位という駆け出しゴルファー。
ワトソンが練習しているとひとりの若者が声をかけたんだ。「あなたには才能がある。私を専属キャディーにしてくれませんか?」
それがふたりの出会いで若者の名前はブルース・エドワーズ。ワトソンはそんなキャリアもない4歳下の青年の熱意に押され雇うことにした。こうしてふたりの歩みが始まったんじゃよ。
ブルースのコース下見と分析力は素晴らしいものがあった。ブルースの的確なメモを参考に戦うといきなり6位。
今のゴルフファンは知る由もないが、その当時のキャディは単なる荷物運びというイメージじゃったからのう。
ところがふたりは「キャディーとは共闘するコンビ」という全く新しい構図を作り出したんじゃよ。まさに新時代の幕開けじゃった。
エドワーズは折れかけたワトソンの心を強い言葉でサポート。「ミスしたら諦めていいのか!」と挑戦意欲を湧き立たせた。
やがてワトソンはイップスになり全く勝てなくなる。
しかしそのスランプを脱出させたのもブルースだった。
1996年ついに復活優勝!そんな矢先ブルースがALS(筋萎縮性側索硬化症)だと告白。それは脳からの信号が筋肉に伝わらなり、徐々に体が動かなくなって最終的に呼吸が止まってしまう難病なんだ。
ワトソンは「オレは世界の舞台に立つんだ。だけどそれは君と一緒でなければイヤなんだ」。
2003年の全米オープン(ワトソン53歳)。久々に参戦したワトソンのバッグを担いでいたのはブルース、見る影もないほどガリガリに痩せておったが、カート使用(特別許可はあった)を自ら拒否しついに自分の足で歩いて仕事を全うしたんじゃよ。
タイガーの全盛期じゃったが世界中のトッププロを相手に初日はトップじゃったわ。まさに奇跡じゃ。
ホールアウトしてブルースは人目もはばからず大きな声をあげて泣いておった。もらい泣きしたのう。
最終的に28位じゃった。最終ホールのギャラリーの拍手と大歓声はスコットランド中に響いただろうのう。
奇しくも1年後のマスターズ初日(2004年4月8日)、ブルース・エドワーズは天国へ旅立ってしまった。享年49歳。大会会場で訃報を知ったワトソンは涙にくれながらもブルースとともに戦いきったんじゃよ。
ジャック・ウィリアム・ニクラウス(Jack William Nicklaus、1940年1月21日生まれ)。
メジャー大会18勝の最多記録保持者(メジャー大会参加は最多の164試合)、PGAツアー通算72勝はタイガー、サム・スニードに次ぐ3位。
ニクラウスが通った大学はオハイオ州立大学、専攻は薬学で保険の勉強もしていたので、卒業後は父の薬局チェーンをついで薬剤師になろうとしていたんだ。大学在学中も保険業界でアルバイトしておったのう。
彼は好きなゴルフはアマチュアのままでいて、史上初のアマ・マスターズ制覇をするぞと周囲に話しておったんだ。
1960年7月、同じ大学の看護学生だったバーバラ・バッシュと結婚したんだ。ところがゴルフがあまりにもうまいためその年の11月に考えを改め家族を養うためにプロになると決めたんじゃよ。蛇足じゃが1972年にオハイオ州立大学は彼に名誉博士号を授与したんだ。
さて、ジャック・ニクラウスのことは読者のほうが詳しいだろうから端折るとして、ヒントにあったパター盗難事件をざっくり紹介しよう。
事件があった当時、「バルタスロールの死闘」の熱波は日本中のゴルフファンの間で冷め切っていなかったんじゃ。それは1980年、今から約43年前のニュージャージー州、バルタスロール・ゴルフ・クラブでのことだ。
ゴルフ4大メジャー大会のひとつ、「全米オープン選手権」で“帝王・ジャック・ニクラウス”と4日間にわたり熾烈な優勝争いを繰り広げたのが青木功プロ(国内・海外合わせて通算85勝)じゃった。
熱きゴルフファンの求めでその年に、あるスポンサーがニクラウスと青木功のチャリティ・エキジビジョンゴルフを戸塚カントリーでやろうと企画したんだ。
この時、ニクラウスが長年愛用していたパターが何者かに盗まれるという事件があって大騒ぎ。
その日は終日雨だったので、ふたりの使用クラブはハウスのなかで乾かしておったんだ。ところがなんと何者かにすり替えられてしまった。
その時のニクラウスの談話がカッコよかった。
「私にはそっくりなパターがあるから明日からのプレーに支障はない。ただ、若い時からずっと使っていたので非常にセンチメンタルな気分だ。
しかし、むしろ盗みをした人のことが心配だ。将来に悪い影響がでなければよいが・・大丈夫かどうか・・・、でも私は日本人を信じている」。
パターは2日後に無事ニクラウスの手に戻されて関係者もホッとしたんじゃろうのう。
犯人は熱狂的なニクラウスファンだった都内の大学生(19歳)じゃった。
大学のゴルフクラブに所属する学生は観戦中トイレを利用するためクラブハウスに入ったところ、ちょうどニクラウス愛用のパターが目に入り、とっさの判断で自分の持っていたニクラウスモデルのパターと取り換えてしまったそうだ。
その学生は新聞記事のニクラウスのコメントを読み、良心の呵責に耐えかね母親に付き添われ自首となった。ニクラウスは大喜びしたそうで、若い学生をかばい「もうこれ以上の罪は必要ない。間違いは誰にでもあるのだからすべて不問にしてほしい」とコメントした。
最後は「こんな騒動で新聞に載ったのだから、メーカーにとって最高のパブリシティーになったろう」と軽いジョークを飛ばしてすべてを丸ッと収めたのは見事じゃったよ。帝王の貫禄かなぁ。
世界一むずかしい「ゴルフクイズ・レジェンド編」
クイズって楽しいですね。クイズが好きな人しか読まないでしょうし、回答者の顔を重い浮かべながら問題を制作するのは楽しいものです。
ゴルフの歴史は長く、数えきれないほどのレジェンドがいるので難問なら無限に続くでしょう。
そうそう、今回の回答者にすべて共通するのは「マスターズ優勝者」ということでしたね。
次回はアングルを変えての出題となるから、ゴルフの神様の問題を楽しみにしてほしいのう、ホホホ・・・
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